出発前準備も佳境に入ってきて、引っ越しやらなんやらで、毎日が飛ぶように過ぎていっています。それでも、毎日成すべきことが自然に成されていっているので、毎日ありがたく感じています。
さて、先日のドランヴァロのさんのセミナー中のとある雑談の中で、「瞑想がスピリチュアルな学びで良いと聞いているけど、本当にいいものなの?」というような内容の質問を受けました。この件に関しては、リンクさせて頂いている葵さんの下記の記事の中にすごく良く分かりやすい説明があり、それを読んだ直後だったので、その時は、下記を参考に説明させて頂きました。実際のところ、この記事読んで、瞑想にも必要なタイミングがある事を認識させて頂きました。
ここ
私の言葉に直して説明させて頂くと、次のような話に置き換える事ができます。私は中学生の頃から剣道を始めました。剣道の基本は素振りと言って、竹刀を何度も何度も振る事です。始めた当時はまだ体も成長期に入る直前で、まだそれほど力強く振れませんでしたが、それでもそれなりに一生懸命に振っていました。今思い返して見ると、それは高校生や大学生の方々の振り方に比べると、全然できていませんでしたが、小学生や、小学生になる前の子たちよりはしっかりできていたと思います。
想像して頂きたいのですが、まだ体のしっかりできていない小学生の子たちにとって、素振りは体に負担をかけ過ぎて、避けた方がいい場合があります。素振り自体は鍛錬を積む上で必要不可欠ですが、必要な時期をしっかりと見極める必要があります。(ちなみに、剣道は大学を卒業するまで続けました。)
スピリチュアルな世界を探求する者にとって、瞑想は剣道でいう素振りくらい基本的で重要なものです。それは、このスピリチュアル世界を探求する上では必要な手法であり、避けては通れないゲートでもあります。しかしながら、まだ自分自身の意思(意図)をしっかりと保つ事の出来ていない(精神的な柱ができていなかったり、グラウディングができていなかったり、トラウマを克服できていない)方々にとっては、良い面よりも、良くない面の方が強く現れる場合があります。
ここでのポイントは、瞑想自体が悪いのでは無く、瞑想には、それを行うべきタイミングがあり、それが、魂の学びの度合によって人それぞれ異なるという事です。その目安の一つとして、目を閉じて、自分の中に深く入ろうとしたとき、雑念が湧いてきて、それを止めるためにマインド(頭)がさらに忙しく回り続ける内は、まだ時期的には早いように感じます。なぜならば、魂の学びが進んで行くと、雑念は止めなくても自然と止まるようになるからです。
ここで、マインドの働きを鎮め、ハート(心)との調和を取る方法の一つをお伝えします。(この方法については、以前も紹介させて頂きましたが、)普通に散歩する時に、また家事をするときに、とにかく五感に意識を集中させます。触れるもの全ての触感を味わい、音を味わい、匂いを味わいます。それは、足の感覚であったり、足音であったり、草木の匂いであったりします。(普段は視覚からの情報に頼りきっていると思いますので、)特に視覚以外の感覚に意識を向け、それをできるだけ同時に感じてみます。そうすると、最初はマインド(頭)がフル回転しますが、次第に、マインドの処理能力を超え、それでも続けていくと、次第にマインドを超えたところで感じられるようになります。すると、今まで、気づかなかった色々な事に気づけるようになります。(例えば、新しい花を発見したり、今まで気づかなかった看板に気づいたりします。)
それは、マインドがそのコントロールを手放す事により、「思い込み」の領域が手放され、"今"を感じ生きられるようになるからです。またこの状態では、マインドは止めようとしなくても静かになり、(理想的な状態で、)ハートと調和を取り始めます。
仮にこの状態が普通にできるようになったならば、瞑想は非常に有効な手法として機能するようになります。
個人的には、ドランヴァロさんが提唱されたマカバ瞑想がお気に入りです。私の場合は、この瞑想に出会って、初めて内なる自分に意識的に入り込めるようになりました。そして、最近はこれをベースに、複数の瞑想をプラスしてオリジナル瞑想を楽しんでいます。とはいっても、瞑想そのものを楽しめるようになったのは、8か月くらい前(マカバは3か月前)からで、それまでは、お気に入り場所でただ「ぼ〜」とするか、居眠りするだけでした。
この世の中には様々な瞑想法が紹介されており、それぞれ合う合わないがあると思います。スポーツの世界では、体ができれば色々な楽しみ方があると同様に、スピリチュアルな世界でも、まずスピリチュアルな基礎体力をしっかりつけてから、お気入りの瞑想法を探求してい頂ければと思います。
話は変り、在る観える方から、(特にここ最近は)3名のマスターに導かれていると教えて頂きました。その内の、一人の方からのメッセージです。
山登りを思い描いていみるが良い。
低く、整備された山を散策する事は誰にでもできる。
されど、深く、高き世界に分け入るのであれば、
それ相応の体力と装備が必要とされよう。
スピリチュアルな探求は魂の本質的な欲求である。
その思いは誰にも止める事はできまい。
一足飛びにたどり着く事を拒む世界でもある。
されど、全てのトラップは自らが作り出した幻影である事を理解したならば、
その本質に辿りつく事は庭を散歩するほどに容易いことでもある。
同時に、時間の概念を超越した世界でもある。
ゆえに、瞬時に開かれる世界でもある。
皆さんに、愛と光の加護がありますように。そして、内なる叡知に導かれますように。